一般社団法人
アクション・フォー・コリア・ユナイテッド

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オンラインセミナー 「あきらめない心」講演会を実施しました 講師:ちゃんへん氏(世界的在日コリアンパフォーマー)

2020/11/19

 10月24日に在日コリアンであり、世界的なプロパフォーマーである、ちゃんへん.(本名:金昌幸)氏を招き、「あきらめない心」というテーマでオンラインセミナーを開催。少年時代の壮絶な差別の体験やそれに対する家族の関わりの中で学んだ愛や生き方、そして、パフォーマーとしての世界平和に寄与していく思いなどを語っていただきました。

 多くの内容の中で、要点を抜粋します。
 動画は以下からご覧になれます(2020年12月中の公開になります)。


―これまでの主な活動
■中学生の時にジャグリングを始める。高校の時に出場した『大道芸ワールドカップin静岡2002』において最年少で1位を獲得。プロパフォーマーとなる。
■その後、約2年間で47都道府県での営業を達成。高校卒業後、活動の場を国外にも広げ、これまで82の国と地域で公演を行う。
■現在はジャグリングパフォーマンスにとどまらず、講演会の活動やヒップホップでのラップも行うなど多岐に渡る活躍を見せている。
■今年の8月に『ぼくは挑戦人(ちょうせんじん)』を集英社から発刊。

―生まれ育った環境は
■1985年に京都の宇治市にあるウトロ地区(在日コリアンの集住地区)で生まれる。ちゃんへん氏の祖父は自分が日本にいる一方、兄弟が朝鮮半島の南北に残ったまま、第二次世界大戦後に朝鮮半島が分断。分断が終わり、兄弟が会える日を夢見て、国籍を取得せずに日本に留まった。(ウトロ地区は現在再開発中で、ちゃんへん氏の生家も現在は取り壊されている)
■周りにいる人は全て朝鮮語を話すような環境で育つ。ソウルオリンピック後、地域に電気が通り始めたことで隣の家にテレビが入ったが、テレビの中で話されている日本語が「標準語」で自分たちの話している朝鮮語が「方言」だと最初は感じるほど、朝鮮語に馴染みの深い地域だった。


これまでの活動や生い立ちについて語るちゃんへん.

―小学校時代。周囲との違いが鮮明に。自分のアイデンティティを考え始める。
■両親が朝鮮学校出身ながら、母親の助言により日本の学校に行くことになる。
■日本語が飛び交う学校生活に最初戸惑いを感じつつ、次第に慣れていく。しかし、「好きな食べ物は」という授業で、周りは「ミートボール」「ハンバーグ」「オムライス」 などの答えが多い中で、「キムチ」「ピビンパ」「チョレギ」と答えたあたりからさらに違和感を感じ始める。
■運動会。当日の朝に祖母からの激励「今日は全て1番になりなさい」。昼食のお弁当時に、学校のグラウンドで調理を始める親戚。服装は派手なチマチョゴリ。
■徒競走で祖母の激励「祖国のために1番になりなさい」。結果は2番。自分では満足いく結果だったが、祖母にきつくしばかれる。その時はその意味が深くわからず。

―壮絶ないじめと母親の教え
■小学校2年までは普通に暮らすが、小学校3年生からいじめが始まる。最初は避けられていると感じるくらいだが、次第にクラスのほとんどの人から無視されるように。靴を隠す。教科書ノートに落書きされる。「朝鮮人死ね」などの文字も。
■いじめがエスカレートし、6年生から暴行を加えられる。最初は強気だったのが、次第に自分を責め始める。そんな中でもいじめはひどくなる。
■ある日、いじめが発覚。母親が学校へ。いじめた生徒を叱る校長に母親の一言「いじめはなくならない。生徒がいじめをするのは、この学校にいじめより面白いものがないからや!」
その母親の言葉が胸に刺さる。

―ハイパーヨーヨーとの出会いが人生の転機
■漫画雑誌「コロコロコミック」の懸賞で当たったハイパーヨーヨーにハマり、練習を始める。その後、空前のハイパーヨーヨーブーム。
■全国化し、全国大会が開催されるように。そんな中、京都大会で優勝。その日を境に、それまでいじめていたクラスメートからヒーロー的扱いを受ける。そこから学んだのは、「人は共通点があるだけでこんなに近い存在になれる」ということ。その後も多くの大会で優勝を重ねる。
■さらに、中学2年生になる前にジャグリングを始める。曾祖母の「好きなことを見つけて一番になりなさい。それがお前を守ってくれる」の言葉を思い出し必死に練習。実力をつける。

―アメリカへ。「国籍を選ぶ」ことの特別な意味と誓い。
■中学2年生の秋に抱いた思い「アメリカにいって自分の実力を試したい」
■母親の返事は「わかった」。しかし、その後、目に涙を溜めながら「今この場で、南か北か、国籍を選びなさい」「お前の夢はアメリカにあるんだろう。それならば、韓国籍をとっておいた方がいい」
■ちゃんへん氏が国籍を取ることを母親が祖母に伝えると、祖母が激怒。「今言っていることの意味がわかっているのか!」しかし、最初は「おばあちゃんは北を支持しているんだ」と考える。しかし、全く違う理由だった。
■祖母が激怒した理由。国籍を選ぶということ。それは、南北分断を認めること。アメリカとソ連の外勢によって祖国の分断を認めること。目に涙を溜めながら訴える祖母を見ながら、「自分が間違っていた。平和ボケしていた」と痛感。
■一部始終を聞いていた祖父「分断して別れた兄弟といつかは一緒にくらすという俺の夢は叶わないかもしれないが、こいつは国籍を変えるだけでチャレンジできる。国籍を変えたからと言って中身は変わらない」と背中を押してくれる。
■その時に誓ったこと。いつかパフォーマーとして一流になり、政治家ができないことを芸術家として成し遂げたい、との一念でパフォーマンスに励む。

―質疑応答
■朝鮮半島の平和、統一に対してパフォーマンスで具体的に貢献されたことは?
>人生で初めて朝鮮半島で講演をしたのが日韓ワールドカップの時。当時高校2年生。
 韓国で仕事が来たというと、祖母から「帰るんだ」という返答。この時、祖母が朝鮮半島出身ということを改めて感じる。韓国では罵声を浴びせられたり、ひどい経験もあったが、帰国し祖母から「どうだった?」と興味深げに聞かれることを通し、いつか一緒に渡りたい、という気持ちが芽生える。
2012年に北朝鮮でも公演。その時に金正恩にも会う。
 その後、南北首脳会談の様子を見たりする中で、北と南だけでなく、日本やサハリンにいる在外同胞に、同じ場所でパフォーマンスを見て欲しいと強く感じる。こうした体験から、政治的メッセージで不可能なことも芸術で可能だと強く信じている。

■同世代のアジアの若者にこれだけは伝えたいというメッセージは?
>偏見が偏見をちょっと興味に変える。人への関心に変えるだけで、その人が生きる、見える世界が劇的に変わると思う。2001年9.11の事件当時、自分はニューヨークにいたが(当時、高校1年生)、アメリカ人の中で自分を含め、イスラム教はヤバい、という仲間が多かったが、実際に中東のイスラム系諸国に行ってみると全く違った。それに比べ、アメリカとなるとなぜ私たちはなぜ全否定しないのか。それはアメリカの俳優、文化、食べ物などを身近に知っているからだと考えた。ただ、中東を始めイスラム圏についてはほとんど知らない。それが偏見につながっているのでは。
 過去にヘイトスピーチをしていた青年と話したことがある。彼らのほとんどは、ただデモの後の飲み会に参加したいとか、そう言った動機を持って参加しているだけ。彼らを在日のお店に連れていって、K-popスターの曲などを見せたりしたら、少なくとも否定はしなくなった。