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オンラインセミナー 「9万3千人が海を渡った北朝鮮帰国事業を今、考える」を開催しました(講師:法政大学・高柳俊男教授)

2022/03/31

 3月19日(土)に法政大学 国際文化学部 教授の髙栁俊男氏をお招きし、 「9万3千人が海を渡った北朝鮮帰国事業を今、考える」をテーマにオンラインセミナーを開催しました。
 当日は、川崎栄子代表理事の挨拶で始まり、髙栁氏との出会いの経緯などが触れられたあと、髙栁氏より、帰国事業との関連や、ボトナム通りリニューアルプロジェクトへの想い、また、3月23日に東京地裁にて一旦の判決が出された(ウェビナー当日ではまだ判決は出ておらず)北朝鮮帰国事業裁判について話されました。

 

当日語られた内容の中から、一部を抜粋します。

―今回のオンラインセミナーにあたり
■コロナ禍に入り、zoomウェビナーなどに多く参加してきた。自分が話すことはあまり経験がなく、今回、講演を準備する中で、自分の人生、朝鮮に関わる研究をもう一度見直す機会になった。
■ロシアによるウクライナ侵攻を受け、生きているうちにこのようなことがあるとは思わなかった。作業しながら思うことが多々あった。

最近の世界情勢を触れつつ、当日までの準備をふり返る髙栁氏

■もともと韓国、朝鮮史を研究対象として進んだのではなく、東京に来てから「季刊三千里」という機関紙に関わる中で、日本側だけでなく、韓国側や在日コリアンからの視点を研究する中でのめり込んでいった。
■出身地のすぐ近くに朝日友好親善の石碑ある日朝の歴史にゆかりのある土地で育つ。

自身と朝鮮半島の関係について語る髙栁氏

■現在の法政大学には、国際文化学部ができるときに着任。23年間、在日コリアンの文化や、法政大学自体の歴史である法政学の研究教育にも携わっている。
■留学生への国内研修も担当しており、長野県での研修を行い、その地域の特産物の収穫などをしたりしている。



―帰国事業との関わりについて
■朝鮮半島に関心を持った1970年代、左派の認識は韓国の軍事政権が問題であり、民主化運動を弾圧していると考えており、その後で統一が可能だと考えていた。
また、一世代上の人は、日韓・日朝の歴史を考える人たちは少なく、やる場合には総連の人たちを招いて学習会をやるような時代だった。
■その後、情勢が大きく変わり、ゴルバチョフの登場や東欧の変革、ソ連崩壊、韓国が共産圏と国交を結ぶ、などの事象が起こり、その中で自分の研究分野の重要性を認識していった。最初に文章を書いたのは、「記録」という雑誌。「日本映画に描かれた朝鮮」という文章を寄稿した。



■北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会が発足したのが94年。この年が自分にとって画期的な歳となる。帰国事業は在日朝鮮人にとって大きな意味を持っているにもかかわらず、種々の制限によりタブー視されてきた。その後、2度の訪朝をして、覚悟を決め、金英達(キムヨンダル)さんと帰国事業に関連する資料集を出した。

自身の調査研究について触れる髙栁氏

―基本的な帰国事業に関する見方として
■「帰国」や「帰還」など様々な言われかたをするが、いずれにせよ、新たな土地への実質的な移住であった、と言う点。また、韓国が「漢江の奇跡」で成長する以前は、北朝鮮の方が発展しており、期待が高かった、と言う点。また、実際には関係各国の思惑が複雑に交差する中で始まった、と言う点、などがある。



■この事業に関して、単純なプラスマイナス、善悪二元論で考えるのではなく、複雑な歴史を複雑なまま捉えていくことが必要であり、簡単に分かった気にならずに、疑問を持ちながら考えることが必要だと考える。

■帰国事業によって、もともと二分されていた地域が、ディアスポラが拡大する結果になった。帰国事業で帰った後、待遇に大きな差があったことも知られるようになっている。帰国事業開始から50~60年経つと、北朝鮮に渡った人々との関係が薄れていき、在日コリアンにとっても、「すでに関係を切った」と言ったことや、「これ以上の支援もできない」という事情など、色々な聞き取り調査をする中でわかってきた部分もある。



■帰国事業が進むにつれ、北朝鮮の実態も明らかとなり、「理想の国はない」という意識が在日コリアンの中にも広がり、日本での定住意識、共生意識に繋がっていった。
帰国事業の衰退と日本での定住・共生意識の芽生えは、コインの両側面の関係にあると捉えられる。



―「ボトナム通り」リニューアルプロジェクトへの思い
■「ボトナム通り」の名前は、当時の新潟県知事の北村一男氏が命名。日朝友好の証となっていたが、拉致問題など日朝関係の悪化によりお荷物になっていった。
ボトナム通りも当時より60年以上が経ち、当初300本以上あった柳の木が100本以下になった。その一部を補植することにより、自由と人権の象徴にする、ということで、普遍的人権の証として協力している。

全国の帰国事業関連のモニュメントを紹介する髙栁氏

■目黒区の碑文谷公園、立川市役所にあるものなど、東京で知っているものだけでも3つほどある。全国で見てみるとすごい数になると推測。それほど大きな事業であり、多くの人が協力したことの表れであった。

他地域にも存在するモニュメントを紹介

■地域の人がモニュメント保存に尽力した例としては、兵庫県相生市のものがある。清掃などが大変なため、切ってしまおう、という話があったが、商店街の人たちをはじめとして反対があり、今も現存している。刻んだ石碑が残っており、社会科の授業として使用している。


プロジェクトへの期待を述べる高栁氏

■プロジェクトの今後として、管理者である行政をいかに動かすのか、と言う問題がある。また、現地の人々が主体的に動くとことが必要で、現地の人との協力関係を築いていく必要がある。広い意味での社会教育、学校教育、教育の場での取り組みがあると進んでいくのでは、と考える。

―帰国事業裁判との関わりに関しては?
■事業について、いろんな無念の思いがあり、その思いに少しでも寄り添っていきたい、という気持ちで協力をしていきたいと考えている。また、当時から時間が経ち、この事業に再度、光を当てるような契機になれば、との思いで関わっている。
■北朝鮮の国家としての責任もそうだが、日本側の責任への言及も可能と弁護団から聞き、その辺りにも専門家として触れている。

事業についての総括を述べる高栁氏

―質疑応答
Q:帰国事業のモニュメント保存の例として、長野県や兵庫県の例が出てきたが、保存されているものと、廃れていっているものの違いはどのようにして生まれてきているのか。
A:地元の人の思い(商店街の人々や高校生など)があると残るし、時代に流されて風化しているものも多くある。

Q:北送事業をする過程で、関係者も事情を把握するようになったと思うが、中止に向けてすぐに行動を起こさなかった理由は?
A:日本政府からすれば厄介払いという面もあった。あとは、赤十字の協定に則って、帰りたい人を返した。あとは「そちらの問題でしょ」という感じであった。在日コリアンの場合、ある種、帰国者を人質にとられているような状況だった。帰った人たちが平穏に過ごしていくためには、金品を送るだけでなく、余計なことを言うことができない状況に置かれていた。

Q:帰国、帰還と言うことは普通家族との再会があるはずですが、むしろ日本の家族との離散家族となり、脱北以外の再会の道はありませんでした。日本に残った家族は北朝鮮による祖国訪問団によって会うことはできましたが、在日コリアンからも再会を求める声は聞かれませんでした。93000人の家族となると相当な数の人が潜在的にいるはずですが、その理由は何でしょうか。
A:日本側からすれば、初めから片道切符、帰っては来られないと言うことを言って送り出している。それに対して、普通だと、もう一回帰ってくる、里帰りということはあるが、北朝鮮としてもある種、異分子を送り返したくない、ということもあったと思うし、脱北かあるいは日本の家族が祖国訪問で行き、会うか。向こうから来ている人もいる。韓 徳銖(ハンドクス。朝鮮総連初代議長)の子どもたちはしょっちゅうきていたと言うし、そのような役員という肩書きで来て、日本の親族と会っていた。一般的には片道切符であり、そのような運動を起こすと言うのは批判になるし、難しかったのでは。当初は片道切符、と言うことを言われていたが、数年経ったら帰国できる、と言うことを口約束のような形で言ったようである。日本と北朝鮮の間は国交もなく、そのような訪問もない。日本人妻が3回にわたって帰ってきて、再度戻った。それ以外は正式な方法での帰国は難しかったのでは、と考える。
もちろん、思想的に左派ではない人が起こしたことはあるが、運動推進した側としては起こしにくい、と言うことがあったのでは。

他にも質疑応答が持たれました。続きは動画よりご覧ください。
「講演中、故・鈴木啓介先生をうっかり中学教師と発言してしまいましたが、正しくは高校教師です」という訂正依頼が、講演者からありました。