一般社団法人
アクション・フォー・コリア・ユナイテッド

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日本統治時代に起こったアイデンティティの書き換え

2019/08/11

 日本の保守的な論客の中には、日本統治時代の朝鮮は学校教育が拡充され、ハングル文字も普及し、識字率も向上、農業改革や工場建設、鉄道、道路や港湾などのインフラも整備され経済は発展したなど、日本が朝鮮に行った莫大な投資とその肯定的な結果を一方的に強調する人がいます。それとは真逆に、併合そのものが違法で、無理に統治された下での悲惨な出来事を列挙し、経済的な発展も朝鮮を土台に日本のみを利するものだったと批判する見解もあります。両者の声には各々強い感情が込められ橋渡しすることすら不可能なように見えます。

 1919年3月1日の独立運動を契機に、日本は韓国併合以降の武断的統治を見直し、宥和的政策を取り入れました。教育現場では朝鮮人と日本人の差別をなくし、ハングルの普及も進んだと言えます。朝鮮日報、東亜日報などの創刊も1920年のことでした。ところが、このような文化的統治の時代はそう長くは続かなかったのです。1931年に関東軍が画策した満州事変からの満州国の建国。さらには1937年の盧溝橋事件によって日中全面戦争は本格化していきました。そして、戦線が拡大するにつれさらなる戦力の調達が必至となりました。
 日本政府は、1935年8月、憲法学者・美濃部達吉らの天皇機関説を排撃することを目的として国体明徴声明を発表しました。天皇が単に統治機構の一機関ではなく、国家を統治する大権を持つことを宣言し、大日本帝国憲法第一条にある「大日本帝国は万世一系の天皇がこれを統治する」の概念を強化しました。
 同年10月の第二次国体明徴声明では、この国体が「帝国臣民の絶対不動の信念」だとして、それに反して本義から外れることを排除することを打ち出したのです。この方針に則り、文部省は、1937年3月『国体の本義』を発行しました。



「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する」「天皇は、外国の所謂元首・君主・主権者・統治権者たるに止まらせられるお方ではなく、現御神(あきつみかみ)として肇国以来の大義に随って、この国をしろしめし給うのであって、第三条に『天皇は神聖にして侵すべからず』とあるのは、これを昭示せられたものである。」(「国体の本義」より)

 このようにして、神聖な天皇が統治する国 “家”の一員としてのアイデンティティ教育が日本国内で徹底されていったのでした。日中戦争が長期化していった1938年、日本では総力戦のために国家総動員法が施行され、翌年には国民徴用令が制定されました。
 一方、朝鮮では1938年、第三次朝鮮教育令が出され、国体明徴・内鮮一体・忍苦鍛錬の3大綱領に基づき、内地と同様、日本と朝鮮の区別をなくす同化政策が進められました。それまで小学校で必修科目であった朝鮮語は随意科目に格下げされ、実質、朝鮮語の授業はなくなりました。1940 年2 月には創始改名を施行し、1940 年8 月に東亜日報、朝鮮日報は強制的に廃刊させられました。

 1940年9月、満州事変の首謀者だった関東軍作戦参謀の石原莞爾は、『世界最終戦争論』を出版。「人類が心から現人神(あらひとがみ)の信仰に悟入したところに、王道文明は初めてその真価を発揮する。最終戦争即ち王道・覇道の決勝戦は結局、天皇を信仰するものと然らざるものの決勝戦であり、具体的には天皇が世界の天皇とならせられるか、西洋の大統領が世界の指導者となるかを決定するところの、人類歴史の中で空前絶後の大事件である」と、世界の皇民化が戦争の大義であると主張しました。

 そして1941年7月文部省は『臣民の道』を刊行。「皇国の歴史的使命の達成に邁進すること、これ皇国臣民として積むべき修練である。この修練を重ねてこそ、臣民の道が実践せられ、大東亜共栄圏を指導すべき大国民として風尚(ふうしょう、意味:気高さ)が作興せられる」「我が国が家族国家であるというのは、家が集まつて国を形成するというのではなく、国即家であることを意味し、しかして個々の家は国を本として存立するのである」と、皇国日本の使命と国が家族として団結することを徹底しました。同年12月、日本は真珠湾攻撃を決行し、太平洋に戦線が拡大しました。



 元々、日本の学校では教育勅語が1890年に発布され、「危急の大事が起こったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家のためにつくせ」と徹底していただけに、“その時”が来たと受け入れられたのかも知れません。しかし、このような非常事態に陥る日本の中に、元来、異なるアイデンティティを持っていた朝鮮人が“日本人”として組み込まれていたという悲劇的な事実を知らなくてはいけません。
 1910年に日本が韓国を併合し、1915年、朝鮮総督府は「布教規則」を出し、「朝鮮総督は現に宗教の用に供する教会堂、説教所または講義所の類において安寧秩序をみだすのおそれある所為ありと認むるときはその設立者または管理者にたいしこれが使用を停止または禁止することあるべし」(第12条)として、総督府が朝鮮の宗教を統制するようになりました。
 同時に、「神社寺院規則」が出され、朝鮮に神社が創立されるようになったのです。1925年、京城(現在のソウル)の南山の頂に朝鮮半島の朝鮮神宮が完成し、天照大神と明治天皇が祀られました。同じ頃、国体を批判する運動を取り締まる治安維持法が朝鮮内でも施行されました。

 1931年の満州事変以降は、学校生徒の神社参拝強要が激しくなり、1936年には参拝を拒否する学校は廃校にする方針も実施されたのです。京城の朝鮮神宮に「皇国臣民誓詞之搭」が建てられたのは1939年のことでした。日本統治下の朝鮮では、正式な神社と、本殿・鳥居のみの神祠(しんし)が合計1千以上が作られたといいます。1944年8月には国家徴用令を朝鮮人にも実施することが閣議決定され、翌月から徴用労務者の派遣が始まりました。

満州事変で瀋陽に入る日本軍


 このように、日本は韓国併合以降、着々と朝鮮人のアイデンティティの書き換えを進めてきたのです。戦争が激化するにつれて、その皇民化教育の強度は激化していきました。このようなアイデンティティの強制的な書き換えは日本人が建国以来一度も経験したことがないことでした。第二次世界大戦後、日本は一時的に連合軍によって占領され、国の制度の変更が強いられたとはいえ、他国のアイデンティティに転向することを要求されませんでした。米国に押し付けられたとよく批判される「日本国憲法」でさえも、日本人の手で改正できる仕組みが憲法の中で保障されているのです。日本人は可視化しやすい経済発展などには敏感であっても、アイデンティティの書き換えの被害者の不可視的心情を理解することが難しいのは、その経験がないことに起因しているのかも知れません。

 京都大学の小倉紀蔵教授は『歴史認識を乗り越える』(講談社現代新書)の中で、朝鮮人の理気を重んじる朱子学的傾向を取り上げ、「主体」意識の重要性に言及しています。日本人は統治時代、朝鮮人の「主体」を日本人の「主体」に書き換えようとし、さらには世界の「主体」をも書き換えて世界を一つにするという無謀な世界観も出てきました。歴史的にも、ある宗教を信仰する人々が他宗教の人々を無理に改宗させるために暴力が使われました。信じる「主体」の違いから幾度も紛争や戦争が起こり、昨今の暴力的過激主義も共通の課題を抱えています。
 過去、日本が同様の問題の中心にいたにもかかわらず、日本人の多くがその重大な問題に目を向けず、アイデンティティの書き換えを強いられた人々の塗炭の苦しみに対しても無関心でいることが、多くの韓国人が日本人に対して持つ不信感の根底にあるのではないでしょうか?(文責・事務局)