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オンラインセミナー「総連幹部の孫だった彼が語る、在日帰国者が見た北朝鮮」講師:金柱聖氏(講演内容)

2023/05/12



2023年4月29日、AKU Japanオンラインセミナーの講師に金柱聖(キム・ジュソン)さんをお迎えしました。朝鮮総連幹部の祖父と共に、中学2年だった70年代に在日コリアン帰国事業で北朝鮮に渡り、30年以上を過ごした後に脱北され、現在は韓国にて作家やYouTube、テレビ出演などを通して情報を発信していらっしゃる金柱聖さんから、貴重なお話を伺うことができました。

講演部分と質疑応答部分にわけ、2回にわたって掲載します。



ー はじめに
よろしくお願いします。色々なところに顔を出して活動をしていますので、知っていてくださる方も多いと思いますが、今日はパワーポイントを準備して話していきたいと思います。

北朝鮮へ送還された人たちの中でも、朝鮮総連の幹部だったり、幹部の関係者だったり、一般だったりと、その中にも折り目(分類)がついていました。その辺りのことも少しずつ話していきたいと思います。

また川崎代表の場合には帰国船が始まった当初の60年代ですが、私は70年代以降に行っています。一回、帰国船が切れた後に帰った(送還された)人たちの運命はどうだったのか。少しマシだったのか、あるいは他の道があったのか。色々なお話をしようと思います。

テーマは「在日帰国者が見た北朝鮮」ということで話していきます。

ー 私の経歴、自己紹介
私は韓国に来てすぐに、普通の仕事ではなく、北朝鮮の実情に関してあちこちでお話しすることをやっていて、現在も統一教育院の学校統一教育課というところがあり、学生さん相手の平和統一教育です。

韓国は政権が変わるたびに、右・左と、平和統一教育の方針も変わってしまいます。右翼政権の時には、北朝鮮をキツく叩く。文政権の時には統一教育も、「平和統一教育」で、自分が金正恩と一緒に板門店のブロックみたいなところを渡るところをメインにおいたパワーポイントやテキストを作って教育をしていました。そのような違いがあるので、学生さんたちに果たして何を教えたら良いのか?というのもありました。

跳べない蛙』という本を出しました。また、『韓国に馴染めない時書店に行きます』という本も書きました。韓国に来て15〜16年、その間に、私は「脱北者」としてのアイデンティティ、プラスして『在日出身』というのもあります。そして先ほど言った極端な両極化。これによって色々な出来事が起きます。私から見ると、ディアスポラ的な感覚でこの社会を見る、そんな中での書評集になっています。北ではこうだったけど、韓国ではこうだ、両極化された社会構造に対してひねったことを書いています。

(※コリアン・ディアスポラ…朝鮮半島から海外に離散したコリアンを指す)

またYouTubeの個人チャンネルもやっています。

北朝鮮では、平壌海州(ヘジュ)というところに住んでいました。師範大学を卒業し、教員になりました。作家同盟や、国家科学院日用化学研究所というところにもいました。

北朝鮮の国家科学院というのは代表的なのはまず国防科学院で核とかミサイル。そして社会系の国家科学院というのは、経済であるとか、至る所の研究です。北朝鮮で一番深刻なのは、一つは食糧です。もう一つは電力事情です。電気を作れないので、今もあんな真っ暗闇で住まなければなりません。

私がいた研究所では、火力発電について研究していました。平壌と、平安北道にも植民地時代に作った発電所があります。両方とも老朽化しています。タービンを回すために水を送りますが、鉄の配管が錆びて穴が空いているので効率が落ちるし、どんなに温水を流しても途中で漏れていますから、これをセラミックスに変えましょうという研究をしていました。私がいる間には成功しませんでしたが。

私は全然、理科系ではありません。情報通報室というのは、海外の科学技術をまず自分たちがみて、それを研究所の研究者たちに翻訳して教えてあげる業務や、雑誌にして配布するという業務でした。そんな風に30年間住みました。

そして40歳を過ぎて韓国に来て、何をやったらいいかと思いまして、講義ばかりやっていても、これだけでは何の意味もないなと思いました。それでとある人たちから「大学に行きなさい」とアドバイスを受けました。北朝鮮の大学でとったライセンスは韓国では一切認めてもらえません。学歴は認めてくれますが、ライセンスは認めてくれません。

それで手っ取り早かったのが、外国語大学の日本語学科です。脱北者で日本語学科に入ったのは、私が一号です。ちゃんと卒業しましたが、使い道のないライセンスです。

そして北韓大学院大学校に行きましたが、そこは結構脱北者が通っているところです。専門的に北朝鮮を習うということなのですが、学費を半額にしてもらえるので、行きます。韓国の学会もやはり両極化しています。北韓大学院大学校は何か左翼呼ばわりされるのですが、通ってみたら、そんな風に言われて当たり前だなと思いました。学問的に北朝鮮を評する時に、政治色がついてはいけないという論理です。その大学の地下には金正日の大きな写真があります。金大中が平壌で一緒に撮った写真など。

ー 帰国事業で中学時代に北朝鮮へ
私は中学校時代におじいちゃん、おばあちゃんに連れられて、私自身も行きたいと言いましたが、帰国船に乗りました。

帰国事業が1959年に始まって、3〜4年の間に、95000人のうち、7割以上が行きました。すごくたくさん行きました。問題は70年代です。60年代の終わりには、一回切れています。70年代から再開となり、年に2回ずつ万景峰号が行き来しました

色々なことを聞かれたり、言われたりしました。「なぜあの時に行ったのですか?」とか。北に帰った後も、先に北に行っていた人から、そのように聞かれました。「あんたらほんまにアホやな。なんでこの時期に来たん?」って。

知っていても行ったとかいう人もいますが、まさかあんなところに、知っていて行くわけがないでしょ

私のおじいちゃんも朝鮮総連の前身の朝鮮連盟の時から長々と幹部をやっていた人です。年齢もハン・ドクスさんよりも上か下かというくらいです。そんな人なのに、結局は北朝鮮に行って、「悪い悪いとは聞いていたけれども、ここまでとは思わなかった」と遺言のように言いました。

「ここまでとは思わなかった」というのは、当時、朝鮮総連のバリバリだった私のおじいちゃんも、北朝鮮の真相は知らなかったということです。知っていたら、14歳の目に入れても痛くない孫を連れて行くでしょうか。。。

ー 70年代には専門家や技術者が説得を受けて渡った

70年代以降は年に2回ですし、人数も減っています。家族単位が多かったし、特徴としては技術代表団とか、専門家なんとかとか、名分を立てて船に乗っていきました。後から分かったのは道路舗装の技術者とか、鉱山の技師とか、そんな人たちでした。後から聞いて分かった話ですが、昔のように誰でも行ったら幸福になるとかいうのではなく、「あなたたちが日本で使っている技術を祖国に持っていって発揮すれば、もっといい待遇を受けますよ」という名分で説得したらしいのです

一番印象的だったのは散髪屋のおじさんでした。そのおじさんは北朝鮮に渡った時点で気が狂ってしまいました。最初に40日程度、招待所という施設に収容されますが、その施設にいる間にどこかに連れて行かれてしまいました。完璧に気が狂ってしまっていて、それくらいショックだったのだと思います。

ー 「良いところに行く」と思っていた
「何で行ったのか?」ということなのですが、私はまるっきり知りませんでした。何度も言いますが、知ってたらいきません。幼稚園から中学校までおじいちゃんの影響を受けて、日本という「外国」で育って、いつもいつも「北朝鮮は良いところだ」と、「金日成さんはいい人だ、神様みたいな人だ」とそんなことばかり聞かされていました。朝鮮学校に通っていたら、祖国から送られてきた贈り物だとか。あの洗脳教育の中で真実がわかるかどうか…。

それでおじいちゃんが行くと言った時には、行きたかったのです。単なる旅行気分というか。まだ中2です。日常がつまらなくて、どこかに行きたいのです。それで最初は行かないと言いましたが、おばあちゃんに育てられていたので、「行きます」となりました。

その時の14歳の子に、政治的なきっかけなどは全くありません。単なる旅行気分です。いつもいつも話で聞いていた「良いところ」に行く、ということで行きました。

船の汽笛の音が胸を引き裂くような、それは95000名の北に渡った人々の泣き声というか、怨念のようにも感じます。

ー 北朝鮮に到着してからの驚き
スモーフという漫画がありますが、服は少し違うけれども顔はみんな同じような感じ。北朝鮮のチョンジンに到着して、最初に受けた印象が、このスモーフと同じだなということでした。

「あれ、何でみんな同じ格好をしているんだ?何でみんな似ているの?」と思いました。同じ服を着て同じ髪型だったので、そのように思いました。「え?ここが一体、地上の楽園?合ってる?」と、ちょっと怪しいなと思ってバスに乗りました。

バスはロシア製の、当時の「高級バス」でした。オンボロで、馬みたいに上下に飛び跳ねるバスに初めて乗りました。道路状況が悪いので、速度を出すと跳ねるし、排気ガスがバスの中に充満しました。それにも驚きました。これが北朝鮮の最初の印象です。

私は子供でしたからその程度ですが、大人はどうだったのでしょう。みんな無口でした。たぶん呆れているというか、おじいちゃんすら口をつぐんでいました。誰も教えていませんが、「喋ってはいけない」と自覚していたのもあったかも知れません。

それでチョンジンの招待所に入れられました。招待所には40日間滞在しますが、その時に、日本での経歴を見ながら、どこにいって住むかという配置が検討されます。そして持っていった荷物検査も行います。船ですから、荷物はわんさか持っていっていました。

うちはホルモン焼き屋をやっていたので、ガスコンロやホースなどすべて持っていきました。また、当時はインスタント食品が日本で流行っていましたし、トマトケチャップ、マヨネーズ、みかんの缶詰とか、私のために山ほど買っていました。北に渡って、一年以上は食べた記憶があります。

「あれ?なんで?」と思いながらも、とりあえず「パラダイスに行くんだから」という気持ちが強かったので、それ以上は詮索もしませんでした。

ー 「何でこれを持っていくの?」
セイコーの時計と、シチズン系列のトモニーという腕時計を何十個も買うのです。何でかな?時計屋さんでもやるのかなと思っていました。

あとは「ネッカチーフ」という女性が首にスカーフのようにかけたり頭に被ったりする、トンボの羽みたいに薄いのが流行って、ブランド品のようになっていました。それも何百枚と持っていきました。

「おじいちゃん、何でこれを持って行くの?」と聞くと、お前のクナボジ(父の兄)が「これだけは必ず持ってこい」と言うから、と答えました。父のお兄さん家族が60年代に先に北朝鮮に行っていましたので。

ー 招待所で気が狂ってしまう人もいた
そんな腑に落ちないことはたくさんありました。でも私は何とか乗り越えながら過ごしました。ただ散髪屋のおじさんのように、大人は気が狂った人もいました。

朝鮮大学に通っていた人が、平壌に送ってくれないということで、4階建ての招待所から飛び降り自殺をすると言ったり、会議室に閉じこもって出てこなくなったり、色々な事件がありました。

その時、朝鮮総連幹部の子供達が結構行っていました。私と同じくらいか少し上の人たちで、彼らはみんな親元を離れて行きました。彼らは特別待遇で幹部寮から大学に通いましたが。

そこからみんな分かれていきましたが、私の場合はおじいちゃんが朝鮮総連幹部でしたから、平壌に行かされました。日本から行った人たちはみんな平壌にいきたがっていました。

チョンジン(の招待所)にいる時に、先に帰国していた親戚たちが、一定期間が過ぎると面会にきます。招待所と別に設けられたスペースで親戚に会うと、「円を持ってるか?」とみんながそんな風に聞きます。「え?円は新潟で替えたけど」とか、「円なんて役に立たないでしょ」と思うのですが、その時に「外貨商店」というのがあるのを初めて知りました。「え?何だこの矛盾は?」と思いました。

ー 朝鮮総連幹部は北で「セカンドポジション」についた
とにかくそんな感じで私のおじいちゃんは平壌の行政委員会というところで、日本で言えば公務員になりました。その時、父の兄は黄海南道に住んでいました。おじいちゃんの待遇は、行政委員会の副委員長という肩書きで幹部になりました。総連幹部で北に行った人は「副委員長」「副支配人」などの肩書きにつく人がけっこう多かったです。絶対にファーストではなく、セカンドの位置です。ファーストにはなれません。ですが一般庶民よりは良い待遇を受けているというのが総連幹部でした。

だからと言って、総連幹部が向こうにいって楽をした、ということでもないのです。だいたい、歳をとってから行っていますので、私のおじいちゃんも肺病になったり、結局はガンで亡くなりました。持病があったりしますと、北朝鮮の医療水準はご存知の通りです。

ー 虎のようだった祖父が夜中に泣く姿
それで健康のこともありましたし、自分が思っていた北朝鮮よりはるかに悲惨だったということもあり、あの虎のようなおじいちゃんが、夜にシクシク泣いている姿を見てびっくりしました。まともに僕の顔を見れなかった。日本では僕が怯える虎みたいなおじいちゃんだったのですが。

それで幼ながらに「あぁ、おじいちゃんは俺をこんなところに連れてきたから、それで結構罪意識を感じているのかな」と思って。それでおじいちゃんにいたわりの言葉でもかければ良かったかも知れませんが、そういう風にはなれませんでした。

ー 北朝鮮で漁(あさ)られる総連幹部
そんな中で、おじいちゃんが亡くなりました。葬儀の日に感じたのは、党幹部がずらりとやってきて、酒を飲みながら「本物の共産主義者だ」とか、おべんちゃらのようなことばかり言っていました。総連幹部だから良い待遇をしてくれると言いながら、私たちからするとそれは待遇ではないような気がしました。一言で言うと「あさり」です。

おじいちゃんが生きていた時にもしょっちゅう幹部はきましたが、来たら何かを持って行くのです。何か物を漁りに来ている、それだけじゃないだろうかと。私たちの場合には物を色々と持って行ったし、日本に親戚もいるから仕送りなども後々まで続いていました。しかし60年代に行った人たちはすでに日本と縁が切れていたりして、北朝鮮の人と同じ状況で住んでいる方もいました。そういう人たちには見向きもしません。

ー 総連幹部でも身の保証はない
北朝鮮でも在日だけのコミュニティというのはやはり形成されます。有名な平壌のボーリング場も在日の人が作りましたが、そういう有名な人、目立つ人もいました。核工場の支配人は金日成とも何度も会っていました。しかしそんな人でも政治犯収容所に連れて行かれたとか、そんな事件もありました。

だから総連幹部だからと言って向こうで良い暮らしをしたかというとそれは違います。

ー 祖父母との別れ
おじいちゃんの運命を見ていると、あからさまにかわいそうだなと思います。「そのまま日本にいた方が良かったのではないか?」と幼い私も思うくらいでしたので。あんな几帳面で綺麗好きで1日にワイシャツを2回も着替えるおじいちゃんが、歩いただけで埃だらけになる北朝鮮の環境で、白いものなんか着られないのです。

それでおじさん(自分の長男)に向かって「お前は北朝鮮に来て10年以上にもなるのに、道路工事もろくにしないで、どうなってるんだ!」と怒鳴っていました。現実ばなれした話ですが。

そしておばあちゃんもおじいちゃんの6ヶ月後くらいに、心臓病で亡くなりました。おばあちゃんは最期、もうろくしてしまって、私以外は見分けられないような状態でした。

北朝鮮の学生は春と秋になれば農村に送り出し、そこで働かされます。私もおじいちゃんが亡くなった翌年の4月に農村で働いていたら、担任の先生から、「お前、早く家に行け。おばあちゃんが亡くなったぞ」と言われました。行けと言われても、どうやって行くかと言えば、歩いて行くのが普通だそうです。本当にきつい道のりでした。夕方3時くらいから歩き始めて、家に着いたら夜の10時になっていました。北朝鮮の単位で45里(約18キロ)歩いたと思います。足にタコができて酷かったです。

住んでいた海州というのは南よりで、ここにいた在日だけが得られた特権は、韓国のテレビ放送を見られるということです。日本から持って行ったテレビでみることができました。あれは本当に「災難の中の恵み」みたいなものでした。

ー 脱北地点と脱北ルート
脱北地点は北東の方です。鴨緑江と豆満江という川が中朝国境にあります。両江道というのは、両方に川が流れているということです。韓半島はやたらと3000里が好きなのですが、二つの川を合わせるとまさしく3000里です。だいたいの人は私も含め豆満江から脱北してきています。

2010年以降は脱北も厳しくなりました。それで両江道の鴨緑江の方から脱北し始めたら今度はそこに鉄条網がはられました。最近はコロナが終わって少しずつ始まるのではないかという情報も入っています。白頭山の天然ジャングルを通して脱北ルートができるのではないかとも言われています。

次に私の脱北ルートです。だいたい、このようなルートが多いです。このルートで3ヶ月くらいかかりました。以前はモンゴル経由もありましたが。私の場合は一度捕まって強制送還もされたりもしましたが、長くなるので割愛します。日本に親戚がいたために、中国にいる時にも連絡してお金を送ってもらうなどしました。北朝鮮の人に比べると、在日コリアンはそのようなアドバンテージがあり、少しは楽だったかもわかりません。



ー 脱北者は家族を裏切ったのではない
韓国社会の中には一部偏見を持っている人が、脱北者に対して「裏切り者」だとか「家族を捨ててきた人」などというのですが、私はそこに対しては絶対に反発します。脱北は決してレジャーではありません。一番羨ましいのは、家族ぐるみで脱北できた人です。そういう状況ではなかったので、まず誰かが来ているのです。「苦難の行軍」の時に家族をなんとか生かそうと思って、奥さんや娘が中国に渡って韓国に来たとか、そんな人たちです。

そういう人たちが裏切り者なのだとしたら、どうして北に残っている人を借金までして韓国に連れてこようとしたりだとか、仕送りをしたりするのでしょうか。それは一言、言っておきたいと思います。「血は水より濃い」という言葉もありますが、人間は同じです。家族を残してきた人は、家族を忘れたことはありません。

帰国者はお金や物、設備などを持って帰ったら、その時だけ高待遇を受けますが、その時だけです。日本にいるお父さんが朝鮮総連を辞めたら、北朝鮮でその子供が幹部寮から追い出されたりします。

ー 富士山を見て滝のように涙を流した
私は脱北した翌年、日本のある機関から招待されて、初めて日本に行きました。北に行った多くの在日がいつも一杯飲んだ時には言っていたのは、「お前の夢はなんだ」と聞けば「死ぬ前に日本に行くことだ」と言っていました。その夢みたいな話が私には実現しました。上空から富士山が見えた時に涙がボロボロ出ました。絶対無理だと思っていたことが実現したということと、北に残っている当時の友人たちの思いなどが蘇ってくるわけです(涙)。

北に帰った在日という存在は、本当に微妙です。なに人なのだろうと思います。

平壌の人民大学習堂の写真です。メディアにしばしば登場する北朝鮮の姿ですが、これが本当の北朝鮮の姿でしょうか?

朝鮮総連幹部子女合宿は1960年代に設立されています。金日成が「帰国者は愛国者の代名詞」だとか言っていました。それで総連幹部の子供達をみんな北朝鮮に送りなさい、自分が育てると言いました。それでハン・ドクスの娘などもみんな行きました。総連幹部の娘たちもみんな行きました。上司が送っているので、下の幹部たちもみんな送らなければなりませんでした。それで幹部子女合宿ができました。

南朝鮮革命幹部養成制度というのがあります。もしも南北が統一された暁には、選ばれた人たちを南に送って幹部をやらせようということです。その幹部の任命を前もって北朝鮮でやっています。その幹部に任命されるのは、在日の、総連幹部の子供達です。なぜかというと、日本に住んでいた在日コリアンの本籍地はほとんど韓国にあります。だから革命幹部ということでその人たちをある施設に入れて6ヶ月から一年ほど教育を受けさせます。そして任命書を与えて、統一された時にはお前たちはこの任命書を持って韓国に行けと言われます。

あれは一種、おだてているだけです。北朝鮮の統一方針は武力統一です。だから朝鮮戦争もやったわけです。

在日帰国者の中で、総連幹部の子供達は、ソプラノ歌手や、映画俳優など、目立っている人は結構多いです。日本でも在日出身の人で活躍している人はいます。なぜかはわかりませんが。

ー 北朝鮮の階級政策
これを崩さない限り、北朝鮮は絶対に変わらないと思います。「3階級51部類の原則」と言って、人間を品比べするという特徴があります。核心階級、動揺階級、敵対階級とありますが、総連幹部だからと言って、核心階級には絶対に入っていません。動揺階級です。

保衛部の知り合いがいましたが、赤黄青の信号に例えていました。青は核心、黄色は動揺、赤は敵対と。私は「俺は未成年で来ているけど、どうなんだ」と聞きましたら、「お前は青に入っているけれど、でも真っ青にはなることができないよ」と言われました。「なんだその真っ青というのは?」「お前も段階を上がれるけれども、限界がある」のだと。金日成と会うとかして何か奇跡的なことがあれば別だけれども、と。

あとは、動揺階級に入らなければ、みんな敵対階級です。60年代に帰った人たちで、保衛部に引っ張られなかった人は、一人もいません。20代、30代で帰国した総連幹部の子供でも、40代、50代になった時に、訳もわからずある日突然、捕まえていきました。そんな人は何人もいました。なぜなのかと聞いたら、日本にいる時に学生運動でデモ活動をして警察に捕まったことがあるらしく、警察でラーメンを食べて一泊したとか、そういうことを保衛部で問題視して、「日本の警察から任務をもらっただろう」などと。それを無罪にしようと思えば、日本に住んでいる知り合い3名が保証しなければなりませんでした。親に連絡してようやく出てきたという話もありました。

北朝鮮の社会構造はこのように階層化されていて、階層の柵があります。だから変化に限界がある状況です。

ー 北朝鮮の実情と統一
経済に関しては、国家依存の状態から、個人主義に移行しています。自分で勝手に色々とやって生きていくしかありません。当局からの配給は一切ありません。

私たちが考える北朝鮮とはどのようなものでしょうか?「独裁」「公開処刑」「貧乏」「とにかく嫌い」「核」「政治犯収容所」「好奇心」「真実と偽り」など色々とありますが、北朝鮮をどのように見るかによって変わってくると思います。

韓国でも「願いは統一」と言いますが、本当に心から統一を望んでいる人というのは、どういう人かなと思ったりもします。保守政権と進歩政権では統一論が違っていたり。

統一されたら、本当に良いことだとは思います。

北朝鮮は暗いところなので、照明を照らさなければ見えません。その時にどんな照明を照らすかによって様々な見え方をするというのが私の持論です。恐る恐るマッチ棒しか点けない人にはちょっとしか見えませんし。

ー 一筋縄ではいかない北朝鮮
また、北朝鮮は崩壊するでしょうか?金正恩が死んだら崩壊するでしょうか?そういう風に簡単に行って欲しいという望みはありますが、あの国は私から見てもわかりません。

金日成の神格化は未だに終わっていません。金日成の銅像に関しては、朝鮮学校に通っている頃から、ある噂がありました。南北が戦争になったら、あの銅像がロボットになって戦うから北が絶対に勝つという話でした。それで私が北に行った時には中学生だったので、本当にロボットだろうかと見にいきました。ロボットではありません。ただ、地震が起きた際などに、地下におろして収納する仕組みにはなっているそうです。びっくりしました。

そして各地にある銅像は一週間に一度、布をかけます。巨大な布で銅像を覆って、掃除します。本当に呆れた国です。

ー 金日成の「ピラミッド」
金日成が生きている時に「主席宮殿」として使っていた建物ですが、金日成が亡くなって、金正日が窓を全て塞いで、ピラミッドのようなものにしました。金日成の死体を腐敗させないようにと、特殊ガスを作れとか色々な話がありましたが、結局は今、ロシアが常駐してやっています。人々は自由に出入りはできず、専用列車で出入りするようになっています。遺体は真空パックのようにして保管してあります。

在日の人は、これができた時に、幹部などはみんな好奇心があるのか、行きたがりました。好奇心というか、完璧に崇拝心です。崇拝し切って、金日成はまだ寝ているだけだ、会いたい、というウブな北朝鮮の人もいましたが。

私もここに3回くらい行きました。見た感想としては、「こんな莫大な費用を使って、ここまでするのか!」と思いました。この遺体を守るために2000名近くが動員されています。入る前には注意事項でポケットにも何も入れていてはいけないと言われ、空港のようなボディチェックも受けます。ポケットに縁起が悪いからと塩を入れていた人が引っかかって入れなかったことがありました。縁起が悪いから入れていたとあの国で言ったら大変なことになるので、胃潰瘍で痛む時に舐めたら治ると言い逃れして何とか助かっていました。

金氏の統治方法は「鞭と飴」です。一方では虐殺するなどして、一方では褒美を与えるなどします。北朝鮮では金正恩と会ったら、宝くじのように運命が変わることがあります。そういうことを未だにやっています。「俺のいうことを聞いたら、こんな風によくなるよ」という。

ー 「将軍様」が亡くなって泣いているのは、本当か?
金正日が亡くなった時に、人々が泣いている写真です。本当に泣いている人もいるし、そうじゃない人もいます。

金正日の霊柩車が平壌市内を回ろうとした時に、雪が降りました。そうしたら市民が上着を脱いで道に敷きました。韓国で「これをどう思いますか?」と聞かれました。

北朝鮮の洗脳教育で、群集心理を最も揺さぶるやり方です。北朝鮮ではこの時、寒いから自分は行かないという人はいません。それ自体が事件化されます。それでみんな外に出て立っています。

そして一人がちょっと大袈裟すぎて、上着を脱いで敷きました。「雪道の上に将軍様を行かせるわけにはいかない」と。隣にいる人はありがた迷惑です。自分は脱ぎたくありませんが、横の人が脱いでいます。どうしますか?どこかで誰かが自分を見ています。そういう感情を幼い頃から常に強いられているのが、あの国です。だから「余計なことをしやがって」と思いながらも渋々脱ぎます。そうしたらみんなが脱ぎ始めます。本当にやりたくてやっている人もいるかも知れませんが。でも、だいたい、あの国はそういうことだと、私は思います。

私だって悲しくはなかったですが、横で泣いているのに、笑うことができるでしょうか?大変なことになります。常に意識していて、嫌でも行動しなければなりません。





ー 北朝鮮の住民登録証と民主主義
婚姻関係まで入っています。徹底的にこれ一つで身元が割れるようになっています。婚姻届、引越し、職場の異動など、一切の手続きをすべて、警察が管理しています。

北朝鮮でも「民主主義」という言葉を使いますが、私たちが考える「自由民主主義」ではありません。「社会民主主義」です。社会を民主主義するのだそうです。人間は何なのかというと、社会に属する社会的存在だと言います。人権という言葉を知らないのはそのためです。社会的存在であって、一個人としての人権は教えもしません。お前たちは社会を民主主義するために犠牲にならなければならない、と。それで北朝鮮の司法・警察機関は、「プロレタリア独裁機関」とされています。

憲法には一切の自由があるとか書いてありますが、全然ありません。居住移転、職業選択、宗教、言論結社の自由など、全然ありません。

選挙の時の投票用紙です。立候補者は一人しかおらず、投票する券にはすでに候補者の名前が印刷してあります。どうやって賛成したり反対したりするのでしょうか。一方的です。これが北朝鮮でいう「社会民主主義」です。悪く言えば「独裁」です。

ー 平壌は「エルサレム」のように作られている
平壌市民は、市民証を持っていて、一般の公民証とは区別されています。そういう意味で北朝鮮は一種、宗教的です。平壌をエルサレムのように作っておいて、「お前たち、言うことを聞いていたら平壌に住めるよ」ということです。今も平壌市民は南北接点地域と国境線を除けば、どこにでも行くことができます。一方で平壌以外の人たちは、平壌には自由に出入りすることはできません。

(平壌で)教授をしているような人の家の写真ですが、昔に比べれば発展しています。日本にいる総連幹部の親が、北にいる子供に、家具などを送ってくることがありました。親として償いのような気持ちでもあります。お母さんは反対して、お父さんが絶対に送らないわけにいかないと言って来た子もいましたし。普通の北朝鮮の人に比べれば良い生活をしたかも知れませんが、それなりに悲しみもありました。

平壌では、日本製品も売っています。昔は直接入っていましたが、今は中国を通してちょっとずつ入っています。クレジットとは違いますが、カードで買い物をすることもできます。

ヤンガクトホテルは一見すると豪華に見えますが、行った人はわかります。シャワーを浴びているのに断水になったり、色々とあります。

とにかく北朝鮮は電力問題を何とかしなければ、どうにもなりません。

総連幹部の子供達は、北に行った時の年齢で精神年齢はストップしているというのがあります。私は14歳で北に渡って、精神年齢はそこでストップしていました。もう少し上の、高校卒業前後で行った先輩たちはそれくらいで。ゴルフ場ができたり、ボウリング場ができたりしたら、みんなハマって遊びました。

特権層の人と仲良くなると合法的に海外に出られるなどの特権が得られる場合があります。そういう人たちと仲良くなるために、日本から送られてきたアダルトビデオを回して、それが見つかって問題になり、8割がたの朝鮮総連幹部の息子が捕まったことがありました。

ー 総連幹部はみんな悪い人?
当時日本にいた総連幹部も、子供を送りたくなかったけれども仕方なく送った場合もあれば、送った後で後悔したこともあるでしょう。心では子供に謝りたかったという人もいたようです。だから人間として言いたいのですが、総連幹部だからといって、みんな悪い人という訳ではないのではないか、と言いたい。私のおじいちゃんを見ていますから。

それで、子供達も子供達なりにかわいそうだった。死んだ人もいましたし、捕まって政治犯収容所に引っ張られた人もいました。誰とは言いませんが、朝鮮総連の偉いさんの甥っ子が90年代に北朝鮮で貿易会社を立ち上げました。お金を吸い取られるだけ吸い取られて、挙げ句の果てに韓国のスパイ扱いを受け、連れて行かれて処刑されてしまいました。利用するだけして、挙げ句の果てには追い込むということをされました。皆さんがよく知っている「偉いさん」です。

ボウリング場は80年代に在日の人が作りました。地下にはサウナがありましたが、タオルも石鹸も、すべて日本製でした。

楽園百貨店も在日の人が作りました。外貨だけが使える百貨店です。シャネルの香水から、何でも売っているところです。

90年代の変化によって、一部の人たちはこういうところに出入りするようになりました。

射撃場やプール、バー(居酒屋)も在日の人が作りました。

ー 統一に対して、考え方を変える必要がある
北朝鮮にも住んで韓国にも住んでみて、結論は何かと言うと、韓半島の統一に関しては、もうちょっと考え方を変えないと、遠ざかる一方ではないかなということです。

韓国の人が「望みは統一」と言っていますが、韓国内ですら統一論が違っていて、統一という名分を利用して他のことばかり考えているということもあります。そういう思考が見えてきました。

北朝鮮と統一しようというのは本当に難しいことです。非核化一つとっても、北朝鮮の本音は、米軍を朝鮮半島からも、日本からもみんな去らせるということです。韓国で言っている非核化と全く異なります。

そんな相手と話をするのに、生ぬるいことを言っていたらキリがありません。文在寅さんも頑張りましたが、実りがなくてショーで終わってしまいました。

私の力では何もできませんが、私が死ぬまでには統一が実現して欲しいと思っています。韓半島の統一には、日本にも関連性があると思います。ですからもう少し関心を持っていただけたら良いと思います。