北朝鮮への帰還事業による人権侵害

2019/10/15

 北朝鮮による人権侵害の問題は前述の強制収容所の問題だけではありません。ご存知の通り、北朝鮮による日本人の拉致被害問題は、いまだに被害者の安否や行方など不明のままです。2002年平壌での日朝首脳会談で金正日が日本人の拉致を認め、被害者5人が日本に帰国して以来、解決に向けた具体的な進展が見られません。日本政府は主権と国民の生命と安全に関わる重大な問題として、この解決なくして、北朝鮮との国交正常化はないという姿勢を取っています。

 拉致問題が注目される一方、陰に横たわる大きな問題があります。それが1959年から1984年までに行われた在日朝鮮人の北朝鮮帰還事業です。当時、在日朝鮮人とその家族、計93,340人が北朝鮮に渡ったまま、彼らの自由と人権が剥奪されたまま、日本への帰国が実現していないのです。93,340人の中には、1,831人の日本人妻と、彼らの被保護者を含め6,839人の日本国籍保持者がいました。このように帰還者の中には、北朝鮮や指導者への忠誠が足りないという理由で、政治犯として強制収容所に送られたり、日本で資本主義を経験した者だとの差別に苦しんだ人たちが数多くいるのです。

 祖父母、父、叔父、そして妹とともに耀徳(ヨドク)政治犯収容所に10年間収監され、1992年に脱北に成功した姜哲煥(カン・チョルファン)氏は、祖父母が京都の朝鮮総連に多大な貢献をしていた裕福な在日朝鮮人家族でした。1963年、帰還事業で祖父母と両親が平壌に移り住み、日本から持参してきた莫大な財産を朝鮮労働党に捧げたにもかかわらず、祖父が党大会や集会に出席しないことを理由に逮捕され、連座制のため家族も収容所に送られたのでした。両親が平壌で暮らしているときに生まれた姜哲煥氏は当時9歳で収容所に送られ、生きるためにネズミを食べることが日常となり、殺人的暴力が支配する学校と労働に耐え抜き、10年間で15回もの公開処刑を見せられました。姜哲煥氏は著書『平壌の水槽』(ポプラ社)と『北朝鮮脱出』(文春文庫、安赫との共著)の中で、収容所には日本から帰還した在日朝鮮人やその日本人妻が多くいたことを証言しています。彼の祖母は、収容所内で日本人妻が「もう十人も死んだそうですよ」と、朝鮮人よりも弱く、赤痢などの病気で死んでいく日本人女性たちに胸を痛めていました。

 政治犯強制収容所で警備隊員として勤務していた安明哲(アン・ミョンチョル氏は、拘留所で保衛員が鞭を使って日本から帰還した在日朝鮮人女性を拷問しているのを耳にしました(『北朝鮮絶望収容所』、KKベストセラーズ)。鞭の音が響く中、恫喝する保衛員に向かって女性はたどたどしい朝鮮語で、「首領様が来いと言ったから祖国にやってきたんだ。ところが祖国っていうのはこんなものなのかね。日本から帰ってきたというだけで、こんなひどい目に遭わせるのが祖国って言えるのかね!」「ああ、私はどうして日本から北になんか来たんだろう。なんでこんなことが見通せなかったんだろう。夫にくっついて子どもまで連れて、、、故郷だからと思ってついてきたのに、私たちがなんだってスパイにされなきゃいけなんだ。」「おい、犬畜生! うちの家族を日本にまた送り返せ!それができないというなら全員殺すなりしろ!」と、叫びながら力尽きました。

 なぜ、このような北朝鮮への帰還運動が長年に渡って実施されたのでしょうか? 
 朝鮮が日本から解放された1945年8月15日直後、それまで日本にいた在日朝鮮人約200万人のうち約140万人が1946年3月までに朝鮮半島南部(韓国)へ帰国しました。北朝鮮には1947年に361人が集団帰還しました。当時、全在日朝鮮人約64万7千人のうち、約51万4千人が帰還を希望していたといいます。そのうち、北への帰還希望者は1万人弱だけでした。解放後に始まった米ソによる南北分割統治も終わり、1948年に韓国と北朝鮮というイデオロギーの対立する二つの国が樹立しました。その方向性の違いは在日朝鮮人にも大きな影響を与え、後に在日本大韓民国民団(民団)と在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)が結成されました。

 大韓民国の樹立直前、1948年4月、済州島で南側の単独選挙に反対する島民が武装蜂起し、それを鎮圧するという理由で、朝鮮本土から送られた治安部隊が数多くの島民を殺害。島民の多くが日本に避難し、新たな在日朝鮮人としてコミュニティを作りました。朝鮮戦争(1950~1953年)によって帰国の流れは一旦途絶え、その戦争最中の1952年、いわゆる「李承晩ライン」(韓国では“平和線”と呼ぶ)の宣言に基づいて、韓国軍が日本の漁船を拿捕する事件が続発しました。銃撃による乗組員の死者も出たことから、日韓関係は極度に緊迫していきました。日本国内はまだ高度成長期に入ったばかりで、経済的余裕はなく、人口増加を背景に、国策的に南米に日本人を移民させていました。また、在日朝鮮人は、日本国内の差別感情から安定した職業に就きにくく、失業率の増加と生活保護受給率の増加を招いていました。1955年末の在日朝鮮人の生活保護受給率は24%で、日本人の10倍以上となり財政を逼迫していたことから、その後1年半で受給者を約4割削減させたのです。このことは在日朝鮮人の生活をさらに困窮化させました。

 朝鮮戦争後の復興が遅れていた韓国はこれ以上の在日朝鮮人を受け入れることができない状況がある中、1955年5月、日本において朝鮮総連が結成されました。さらに、北朝鮮では1957年から千里馬運動という5カ年人民計画経済計画が実施され、1958年9月、金日成は在日朝鮮人の帰国を熱烈に歓迎し、すべての条件が保障されていると発表しました。それ以降、朝鮮総連は「帰国者の拡大」を目標に掲げつつ、帰国運動を通して日本における安定した地位の獲得を目指しました。北朝鮮は「地上の楽園」だと礼賛し、「住宅、食糧、およびその他の生活に必要なすべての物質的条件を充分に保障」「医療費はすべて無料」「希望する仕事もある」「3年もすれば里帰りできる」などと帰還を煽り、日本のメディアもそれを後押しました。

 韓国は在日朝鮮人の北朝鮮への帰国によって、彼らが南でなく北を支持しているという宣伝に使われる怖れや、日本を中継に共産主義者が南北を往来できるようになる懸念もあり、北朝鮮帰国事業に一貫して反対し続けました。日本政府としては、韓国からの強い反発を苦慮しつつ、パスポートを持たない在日朝鮮人を国交のない北朝鮮に送ることの困難さも相まって、日朝政府間ではなく、日本赤十字社(日赤)と朝鮮赤十字会(朝赤)の間で帰還計画について交渉を進めることを認めました。
 さらに赤十字国際委員会(ICRC)の介入を期待し、帰国が本人の自由意志であることを監督し、帰還事業が北朝鮮側に政治的に利用されないようにしました。在日朝鮮人の帰還に必要な配船、旅費を北朝鮮が負担することが明確化し、1958年8月13日、在日朝鮮人に関する日朝赤十字協定が調印されました。この協定では、北朝鮮側の反発を反映して、ICRCの介入の具体的な方法は明示されず、日赤が帰還希望者の登録機構を組織し、運営する際に、ICRCが「助言」することだけが謳われました。
 協定に示された通り、新潟港から975名の帰還者が第一次船で北朝鮮に向かったのが、ちょうど60年前の1959年12月14日でした。帰還者の人権を守る責任の所在が曖昧な状況下で北朝鮮への帰還事業が始まったのです。

日本赤十字社による帰還告知

新潟港から北朝鮮に向かう帰還船


 帰国者は、聞かされていた「地上の楽園」とははかけ離れた状況を目の当たりにして驚愕しました。定住の地域や職業の希望は通らず、食糧の配給は日本で得られてきたものとは比較にならないほど質素で不足していました。
 とくに、主体思想を中心とした社会主義体制強化の方針から、資本主義社会を経験した日本からの帰還者を“規律の乱れと混乱”をもたらす者として監視されるようになりました。金日成への忠誠度によって分類される出身成分において帰国者は最下層の「敵対階層」もしくは「動揺階層」に分類され監視対象となり、現地住民には帰国者に対する差別感情も広がりました。とりわけ日本人に対しては、朝鮮を併合した恨みをぶつけるいじめの対象となったのです。
 実情を知った帰国者は、彼らに続いて帰国する予定だった日本にいる家族に北朝鮮に帰還しないよう伝えるため、検閲官が解読できない方法で手紙を書き送りました。日朝間の家族離散状態という問題も発生したのです。

 AKUジャパンの川崎栄子代表理事は、在日2世として1942年京都で生まれ、1960年朝鮮高校3年生(17歳)の時、金日成個人崇拝に反対していたものの、当時進歩主義的思想として広がっていた社会主義の実体験に関心を持つようになりました。親や学校を説得して、まずは一人で北朝鮮帰還を決め、新潟港から出発しました。
 北朝鮮の清津港に近づいて、先輩男子2人とともに舳先(へさき)で着岸するのを眺めていると、先に渡った先輩が、「そこの3人おりてくるな。その船にのってそのまま日本へ帰れ!」と繰り返し叫んでいるのを聞きました。歓迎のために集まった地元の数千人が皆同じ質素な服を着て、靴下をはかず運動靴をはいていたのを見て異様に思ったそうです。帰還者の中から「騙されたんじゃないか?」という声が聞こえました。

 一週間後、非常招集をかけられ集まったところ、厳しい表情をした警察官が、“ふとどき者が金日成の業績をたたえる絵を引きずりおろし、足で踏んで損壊した”ことを叱責。その罪を犯した青年は別に勉強させているからと聞いたものの、二度とその青年を見ることはなかったそうです。帰還者は、希望の行き先とは関係なく、重労働が必要な炭鉱、鉱山、林業、農業部門など、朝鮮戦争で失われ、労働力が不足した地方の地域に送られていきました。集合住宅では、家族の中で帰還を言い出した人を糾弾する声など、他の家族の言い争いの声を耳にしました。日本に家族や親せきがあるものは助けを求め、手紙を書き送り、物資の支援を得ることができましたが、日本に“つて”のない家庭は、北朝鮮の人よりも貧しくなったといいいます。
 両親が娘に続いて一年後に北朝鮮に渡る計画があったので、川崎氏は検閲官が理解できないように、「私の(幼い)弟が結婚したら、奥さんと一緒に来てほしい」と書き送り、帰還計画を破棄させました。このような状況下で精神異常をきたした人も数多く目撃し、中には自殺をした人もいました。しかし、北朝鮮では、自殺者は国家に反抗する反動者としてみなされ、家族全員が収容所に連行される場合もあるので、帰国者には自殺する自由もなかったと川崎氏は振り返ります。何を見ても、何も発言しない、“見ざる聞かざる言わざる”の姿勢を徹底し、生命を維持することを決め、北朝鮮の高校と大学で勉強に励み、エンジニアとなる道に進むことができました。

 日本人妻にふりかかった悲劇も見てきました。友人の日本人妻が道路工事の現場で少しでもミスをしただけで日本人に対する恨みから集団でつるし上げられ、体調が悪くても後のイジメを恐れて無理して働いていたところ、仕事現場で座り込んだまま息をひきとったそうです。2003年に脱北を決行。後に、一人の娘とその2人の子どもたちも脱北に成功。現在4人の子どもは北朝鮮に残ったままです。
 2004年8月に日本に帰国。その4日後に父を亡くし、2年間母と一緒に過ごし、母を看取りました。その間で、帰国者の状況を綴った著書『日本から北に帰った人の物語』(新幹社)を韓錫圭の筆名で執筆し、出版のために東京に上京。この15年間、北朝鮮に残した子どもたちとは離散家族状態となっているのです。川崎氏は、「朝鮮問題の解決には長い時間をかける必要がある、と言う人に対して、“早くしないといけない”と言います。次の世代には統一された朝鮮半島を見てもらいたい。私たちの世代で解決しなければいけない」と語ります。北朝鮮の人権侵害による直接の被害者として、北朝鮮が国際的に信頼される国になることを期待し、そして、自由民主主義により南北が一つになることを夢みて積極的に行動しています。

帰還者の経験を紹介する川崎栄子氏の著書

 川崎氏と他11名は、2015年1月、日本弁護士連合会人権擁護委員会に人権救済申立書を提出。帰国事業に関わった日・朝政府、日・朝赤十字、そして国際赤十字委員会(ICRC)に、帰国者たちに対する人権侵害と人道に対する罪を訴え、彼らの人権と自由を取り戻す救済措置を求めました。
 また、2018年2月、金正恩と朝鮮総連の「人道に対する罪」をオランダ・ハーグの国際刑事裁判所に訴えましたが、この事案はすでに棄却が決定。
 さらに、2018年8月には、同氏は日本へ脱北した他4人とともに、計5億円の損害賠償を北朝鮮政府に求める訴訟を東京地裁に起こし、北朝鮮が「地上の楽園」とだまして在日朝鮮人を帰還させたにもかかわらず、十分な食糧も与えず、抵抗すると弾圧し基本的人権が侵害されたと訴えています。

 北朝鮮が人間の価値と尊厳を尊重し、基本的人権を保障する証拠を国際社会に見せることが、国際社会の一員として認められる第一歩であり、その道の延長線にコリアンの夢である朝鮮半島の平和的統一があるのです。(文責・事務局)