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オピニオン - 一般社団法人アクション・フォー・コリア・ユナイテッド - Page 4

安昌浩(アン・チャンホ)の精神と今日的意味

2019/08/12

 1919年の独立宣言・民族代表33人としてキリスト教を代表した李昇薫(イ・スンフン 1864-1930 )は、当時、安昌浩(アン・チャンホ 1878-1938)に影響を受けた数多くの独立活動家の中の一人でした。1864年、平安北道定州(現在は北朝鮮内)に生まれた李昇薫は、1907年平壌で安昌浩の「国民一人一人の自覚こそ最も大切であり、教育の充実こそ焦眉の急である」との演説を聞き、大きな感銘を受けました。 その精神を受け継いで、地元定州に自分の財産を出すなどして五山学校を設立し、安昌浩が組織した「新民会」にも加盟しました。その「新民会」が目指したものを見ていくと、安昌浩が成し遂げようとした世界を理解することができます。 1878年、平安南道に生まれた安昌浩は1896年頃にキリスト教に入信し、1902年から神学と教育学を学ぶためにアメリカに留学しました。1905年に大韓帝国が日本と乙巳保護条約を締結し、自国の外交権を失ったことを知り、1907年、国権を回復するために「新民会」を発足し、韓国内の組織を作るために帰国しました。 「新民会」の目標は、「我が国の腐敗した思想と習慣を革新して国民を維新し、衰退した教育と産業を改良して事業を維新し、維新した国民が統一連合して、維新した自由文明圏を成立するためである」であり、祖国独立の達成のみならず、独立以後にどのような国を建てるのかという提示をしました。国の主人となるべき民が自身の人格を養い、知識と技術を持った実力を持ち、民たちがしっかり団結して独立と民主共和国を創建するということでした。 そのために安昌浩は、演説と啓発活動、学校建設や出版活動、青少年修養団体の結成といった活動を精力的に展開しました。1910年日本が韓国を併合した後、安昌浩は再度アメリカに渡り、1913年サンフランシスコで「興士団(フンサダン)」を創立。独立運動に献身する […]

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日本統治時代に起こったアイデンティティの書き換え

2019/08/11

 日本の保守的な論客の中には、日本統治時代の朝鮮は学校教育が拡充され、ハングル文字も普及し、識字率も向上、農業改革や工場建設、鉄道、道路や港湾などのインフラも整備され経済は発展したなど、日本が朝鮮に行った莫大な投資とその肯定的な結果を一方的に強調する人がいます。それとは真逆に、併合そのものが違法で、無理に統治された下での悲惨な出来事を列挙し、経済的な発展も朝鮮を土台に日本のみを利するものだったと批判する見解もあります。両者の声には各々強い感情が込められ橋渡しすることすら不可能なように見えます。 1919年3月1日の独立運動を契機に、日本は韓国併合以降の武断的統治を見直し、宥和的政策を取り入れました。教育現場では朝鮮人と日本人の差別をなくし、ハングルの普及も進んだと言えます。朝鮮日報、東亜日報などの創刊も1920年のことでした。ところが、このような文化的統治の時代はそう長くは続かなかったのです。1931年に関東軍が画策した満州事変からの満州国の建国。さらには1937年の盧溝橋事件によって日中全面戦争は本格化していきました。そして、戦線が拡大するにつれさらなる戦力の調達が必至となりました。 日本政府は、1935年8月、憲法学者・美濃部達吉らの天皇機関説を排撃することを目的として国体明徴声明を発表しました。天皇が単に統治機構の一機関ではなく、国家を統治する大権を持つことを宣言し、大日本帝国憲法第一条にある「大日本帝国は万世一系の天皇がこれを統治する」の概念を強化しました。 同年10月の第二次国体明徴声明では、この国体が「帝国臣民の絶対不動の信念」だとして、それに反して本義から外れることを排除することを打ち出したのです。この方針に則り、文部省は、1937年3月『国体の本義』を発行しました。「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国 […]

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弘益人間とコリアン・ドリーム

2019/08/10

 弘益人間は大韓民国の国是と言えるものです。教育基本法の第2条「教育理念」にも、「教育は弘益人間の理念のもと、すべての国民をして人格を陶冶し」と、弘益人間が教育理念の根幹にあり、それを具現化した人格を涵養することを目指しています。 “弘益人間”という言葉は、13世紀末に書かれた史書『三國遺事』に登場します。同書の古朝鮮条によると、昔、桓因(帝釈天のこと)の子の桓雄が、つねづね天下に対して関心をもち、人間世界に降りて行くことを望んでいました。父が子の気持ちを察して、三危太白(三危は三つの高い山、太白はその中の一つ)を見下ろすと、(そこは)人間を広く利する(弘益人間)に十分であったので、(子に)天符印3個を与え、降りて行って(人間世界を)治めさせた、とあります。桓雄はある熊の願いをかなえて女にし、この熊女(ウンニョ)との間に子ができ、これが檀君王倹(檀君)であり、朝鮮最初の国家である檀君朝鮮を築いたのでした。これが5千年前の古朝鮮の建国神話であり檀君神話として朝鮮民族の間で語り継がれています。 建国神話に描かれた弘益人間の理念は、歴史的に変遷してきた朝鮮民族の宗教的信条を超えて、朝鮮民族のアイデンティティを形成して、人類に奉仕するように導いてきました。1919年、天道教、キリスト教、仏教の指導者が共に発表した3.1独立運動の独立宣言にもその精神は表現されています。当時の独立運動家たちは日本への復讐というレベルではなく、旧体制への回帰でもなく、さらには民族のためだけでなく、弘益人間が示す民族精神が具現された世界の模範となりうる理想国家の建設を目指していたのです。 3.1独立運動の後、上海で大韓民国臨時政府を作った独立活動家の金九は、「それ故に、真の平和が我が国から、我が国によって世界に実現されることを願う。世界平和はまさに我が国祖、檀君の理想である弘益人間を実現することによって叶 […]

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1919年の3.1独立運動について

2019/07/27

 1919年3月1日、大日本帝国に併合された朝鮮で独立運動が起こりました。以降、太極旗を手に「独立万歳」を叫ぶ運動は、数カ月続き200万人以上の朝鮮人が参加したと言われます。約2千万人が当時の朝鮮半島の人口からすると10人に一人が運動に関わったことになります。 日本は朝鮮の覇権を争い日清戦争と日露戦争に勝利し、米国の支持を得ながら、1905年、大韓帝国と乙巳保護条約を締結。大韓帝国は外交権限を日本に託し、実質的に独立国の立場を失いました。漢城(現在のソウル)には韓国総監が置かれ、日本政府主導の行政が導入されました。初代総監は内閣総理大臣を初代から数度歴任した伊藤博文でした。1907年にオランダのハーグで開催された第2回万国平和会議に大韓帝国皇帝の高宗は密使を送り、外交権を奪った日本との条約は無効であり、外交権回復を国際社会に訴えようとしました。これを知った伊藤博文は高宗を退位させ、子の純宗に譲位させたのです。 1909年10月、伊藤が安重根によって暗殺された後、1910年8月大韓帝国は一切の統治権を完全かつ永久に日本に譲与する条約に調印し、韓国総監は朝鮮総督府に変更。庁舎は現在の景福宮内に建設されたのです。陸軍大臣の寺内正毅や元帥陸軍大将の長谷川好道が総督として、朝鮮の武断的統治を強化しました。第一次世界大戦が終盤に入った1918年1月、米国のウィルソン大統領は民族自決や国際連盟の設立などを謳った14カ条の平和原則を発表。翌年1919年1月から始まったパリ講和会議に朝鮮の独立運動家は大きな期待を託し、新韓青年党の金奎植(キム・ギュシク)をパリに派遣しました。 しかし、朝鮮は政府の資格がないとして拒否され、さらには、民族自決がヨーロッパに限定された内容だったことから、朝鮮の独立は会議では議論されませんでした。同じく、高宗が1月21日に急死。東京では2月8日、約600人の朝鮮人 […]

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